昭和51年 月日不明 2 タイトル不明 テープNo.51-060

中村良一

金光大神は、形がのうなったら、来てくれというところへ行ってやるとあります。私共が、金光様を唱えるところに、たちどころに、いわゆる、天翔り、国翔り、金光大神のお働きをそこに頂くことが出来る。言うなら、お取次ぎの働きを受けることが出来る。どこへでも来て下さる。時間空間を問わずに、生神金光大神と唱えるところに、金光大神が現れて下さり、そして、お取次ぎをして下さると言う訳なんでしょうけれども。それを、金光様を唱えても、金光様がお取次ぎをして下さった、来て下さったと言う、その実感がなかったら、それは、来て下さっておっても、私は、本当のおかげにはならないと思う。ね。生神金光大神様と唱えるところに、そこに、生神金光大神様のお取次ぎが願えれるんです。頂けれる。ね。それを信ずるという事が、私は、金光様のご信心だと思います。ね。金光大神は、どこへでも、しかも、時間も空間も問わずに、そこにお働きを下さる。お取次ぎをして下さる。そこには、もう即、天地金乃神様の働きが始まる。ね。ただ、金光様を唱えれば、金光大神様が、どこにでも来て下さるんだという事を知っておっただけでは出来ん。やっぱり、それを信ずると言うおかげを頂くために、私共の、日々の信心修行が大事です。
最近、私は、特にあの、感じますことは、大祓信行が始まって此の方、皆さんのお宅の、いわゆる、宅の神様が、非常に、生き生きとして見えたこと。ね。もう本当に、あの勿体ないほどに、神様が、生き生きとしてね。それを、オイサミなんかで、皆さん、感じておられる。と言う事の楽しみです。大祓信行が始まってこの方、皆さんの心の中の、言うならば、わが心の神とでも申しましょうか。ね。わが心に神がござるから、おかげになるのじゃと仰る様な御教えがありますね。その和賀心なるところの神様が、また実に、生き生きとして見えたという事です。皆さん、実感されないですか。大祓信行させて頂くようになって、自分の心の中に、神様が、非常に、生き生きとして見えた。ね。
私は、確かに、また、そうでなからなければ、大祓信行は値打ちはないと思うです。ね。無条件、ね。御道の信心させて頂く者として、もう無条件、当然の事としてです。無条件に大祓いの信行が、しかも、本当に、行のように、それが続けられて行っておるうちにです。確かに、自分の心のなかに、有難いものが感じれれる。これは、金光教の信心させて頂く者が、当然の事として、無条件に、ね。言うならば、神様のお働きの元であるところの、言うなら原動力とでも申しましょうか。ね。それが、こう、生き生きとして見える。ね。言うなら、栄養失調で、枯れかけておったものに、食べ物を与えるように、宅の神様が、生き生きとして見えた。有り難い事だと思うておったが、自分自身の心の神もまた、生き生きとしてきたと言う、そういう意味のお届けが多い事に、はぁ大祓信行は、いよいよ、有り難い事だなぁと思わせて貰います。ね。言うならば、心の中が、有難くなるという事なんです。そういう、わが心なるところの神様が、生き生きとして見える。自分が頂いておる神様も、また、生き生きとして見える。そういう中にです。いわゆる、生神金光大神が唱えられるところにです。ね。その働きを、はっきり、感ずることが出来るのです。それを、一番、私は、感じれるのは、その、そういう心の状態の上に現れてくる、いうならば、聞こえてくるという方が本当かも知れません。ね。言うならば、天地のリズムとでも申しましょうか。もう、絶えなるまでに、それを、響きを、自分の有難いという心に頂きとめる事が出来るです。それが素晴らしいです。
私は、昨日、休ませて貰う時、ちょっと気になる事があったから、その事をお願いして休ませて貰った。休ませて貰ったら、もう直ぐ、お夢頂いてるんです。そのお夢が、ベートーベンという音楽家がおりますねぇ、有名な。ベートーベンの曲の中に、運命という曲のなかの、安心という曲を、まぁ聞けと言うか、聞くと言うか、そういう風に頂いたんです。ベートーベンの曲の中に、運命、そのなかに、安心という、その曲がある。目が覚めたら、ほんな、十何分かしか休んでなかった。それから起きてから、私、また、(曲を聞かせて頂いて、?)今、私が思うて、チラッと心の中に掛かる、いうなら、不安定な心の状態のところへ、もう眠ったと思うたら、そのベートーベンの曲の中の運命、そのの中に、また、その安心という曲がある。その曲を聞け、または聞くと頂いた。はぁ私が、取り越し苦労だったなぁとこう思わせて貰うて、その事の、まぁ打てば響く様に、神様が、こうしておかげ下さる事が有難いと思うて、お礼を申しあげた事ですけれども。ベートーベンといえば、皆さんもご承知のように、それこそ、世界一の音楽家でもある、作曲家でもある訳です。と言うことは、私は、ほんなら、一番素晴らしい作曲家は、あの演出家でもあると同時に、作曲家でもあるのが、天地金乃神様だと思うです、ね。
様々な、言うならば、私共一人、しかもそれがね。もうみんな、人間氏子の一人ひとりの上に、素晴らしい、この演出をなさっている。それを、演出を演出と感じることろに生まれてくるのが安心であり、同時に、そこに、一つのリズムを聞く。ね。空にさえずる鳥の声、峰より落つる滝の音。ね。大波小波堂々とと言うその、天地が奏でて下さる、そういうリズムではない。これは、私一人に聞かせてくださるリズムなんです。今、私が申しましたのは、これは、もう、みんなが頂いておるリズムなんですね。空にさえずる鳥の声、峰より落つる滝の音。ね。それこそ、寄せては返す波の音、そのものが神様が叶えて下さる、天地のリズムであると同様にです。私共、一人ひとりの上に聞かせてくださるリズムがあるのです。ね。そのリズムが、今日、私が皆さんに聞いて頂いておる様にです。わが心なるところの神様が、生き生きとしてこなければ、自分の頂いておる神様、宅の神様が、生き生きとして見えるように、自分の心の中の神様が、生き生きとして見えないと、そのリズムが、私、一人の為に奏でられておっても、それをリズムと聞くという事が出来んのです。ある場合はささやく様に、ある場合は、大きな演出を持って、私共の周辺に、そういう働きを現して下さる。素晴らしいですよ、ね。
私は昨日、ちょうど、四時の御祈念に入ろうとしておる時に、熊本から、お願いみえました方がある。主人が、本人は知らないけれども、胃癌だと。それも、非常にまぁ、普通では、ちょっと違った胃癌である。そのお願いを、先日から受けておりましたが、昨日も、その事をお願いに参りました。国立病院に入院することに決まった。本人も大変不安。自分も大変、まぁ心配になる訳なんです。それで、私は、普通で言うならば、一心におすがりをしておけば、安心が生まれますよというのですけれども。ね。安心してすがりなさいと、私が申しました。安心してすがれと。何故私が、そういう風に、平気で言えたかと言うと、これは、家になりましたと言うて、ピースを沢山、お供えに持って来ました。ね。ピースという事は、まめという事ですから。はぁこりゃ、まめで退院が出来ると思うたから、ね。私が、もう本当に、もうそれこそ、平気な心で、ね。同時にまた、昨日から頂いております御理解の、ね。あんた達が、一心にすがらにゃおかげにならんとか。あんた達が、そういう事では、おかげにゃならんというのじゃなくて、もう、その身そのまま、すがってきておるのだから、助かるんだと言う確信。ね。ここまでお参りに来なければ、後はもう、電話で良いよと、私は申しました。ね。もう祈りよる。言うならば、信心の時点でです、ね。その身そのままで、助かられるんだ。ね。けれども、焦点だけは、言うならば、ね。南無阿弥陀仏だけで、どういう業の深い人でも助かることが出来る様に、ね。もう、自分のような悪人は、自分のような業の深い者は、とても、お参りしながら、お願いしながら、とても助かりゃきるめ、おかげは頂ききるめと思う心が、おかげにならんのだと言うのが、昨日の御理解でしたよね。
自分のごたる不信心もんじゃ、やっぱりおかげは頂ききるめとこう思う。それでもね、時たまでも参ってくる。もう、だから、それで、不信心は不信心なりに、おかげが頂けれるんだと。けれども、南無阿弥陀仏だけは忘れるなよと。南無阿弥陀仏という事は、仏に帰依する。自分を空しゅうする。そういう意味なんです。だから、ここでは、ほんなら、天地書附のご精神だけは忘れるなよと。信心は、日々の改まりが第一だぞと。信心は、本心の玉を磨くものぞや。ね。だから、事々を通してです。磨くことに、改まることに、いよいよ、和賀心にならなければ、磨ききってしまわなければ、おかげにならんのじゃない。そこに、目当てを、自分の視線を、そちらに向けてから願う限りです。どういう不信心な者であっても、業の深い者であっても、悪を積んでおる人であっても、どんなにだらしのない人でも。もう、そのまま、その身そのまま、助けられんだと言うのが、昨日の御理解だったでしょう。
大体、私は、人から言うたらです。ね。あんたどんが、日頃の信心が、ね。しだごだにするけん、こういう事になる。これからも、ちゃんとせにゃ出来んばいという風に、だから、言わんで済む訳です。不信心なら不信心なりに、おかげが頂けれるぞと。けれどもね、その焦点の所だけは、心向け、心向けて、信心とは本心の玉を磨くもの。さぁ今度、難儀を感ずる、ね。不安である、心配である。そこに修行させて貰う。それは、和賀心目指して修行させて貰う。ここだけは忘れてはならない。
どんなに、罪業のある身であっても、ね。南無阿弥陀仏だけで助かると。ね。親鸞が言ったのは、そういう意味だという事も、昨日、頂いておりましたから、信心が、こうなからなければ、ああなければ、あんたどんが、日頃は、ご無礼ばっかりしておるから、こうだと言う様な事ではなくて、もうその時点で、その不信心なりの、そのままで、おかげが頂けれると、昨日は、確信してのお取次ぎをさせて頂いておるところへ、一つのリズムが聞こえてきた。ね。目の前に、いわゆる、豆のお供えを持ってきた。ね。だから、まめで健康で退院が出来るぞと、ね。安心してすがれと。ね。一心にすがれ。安心が行くよと言うのとは、大変な違いですよね。一心にすがることが出来ない。はぁこげんしたい、こげな修行もせにゃんと思うけども出来ん。出来んともう、そこに不安が生まれる。ね。確かに、一心にすがるところから、安心が生まれてくるんですけれども。だから、昨日は、私は、だからそういうようなね。安心してすがれと。それは、そこに教えと同時に、ね。昨日の朝の教えを、そのままに、そこに現して頂くという事と同時に、ね。そこに奏でられるところのリズムを聞くから、私の心の中に、そういうお取次ぎが出来る訳であります。ね。
金光大神は、形がのうなったら、来てくれというところに、行ってやると仰せられる、のが金光様です。唱えりゃ、そこに来て下さる。けれども、来て下さったか、来て下さらなかったかも分からない。ただ、金光様、金光様を唱えとるだけでは出来ん。そのためには、自分の心が、生き生きとして来なければならない。ね。自分の心が、有り難うならなければいけない。大祓信行によって、宅の神様が、生き生きとして見えたという事と同時に、最近、私が、その大祓信行を、ね。心行として行じておられる方達も、心の中が、生き生きとしてきた。それは、心なるところの神が、生き生きとして見えたという事である。言い換えると、心の中に、有難いというものが、段々、募ってきたという事である。その、有難いという、その心で、生神金光大神様である。そこに、生神金光大神様のお取次ぎの働きが始まる、または、始まった。その証拠に、このリズムが聞こえてくる。自分の周辺に、これは神の、天地のリズムだろうかと言うリズムを聞き取ることが出来る。ね。そこに生まれてくるのが安心である。ね。信心させて頂いての願いは、その安心を目指してからのもの。生神金光大神様を唱えれば、そこに、金光大神が立ち働いて下さるのだから。もうその場で、安心が出来なければならんのだけれども。安心が出来ないのは、ね。来てござるのか、お取次ぎをしてくださるのか分からん様な事だから。自分の心が枯れておる。自分の心が、ね。荒れておる。だから、それを頂きとめる事が出来ん。そういう意味で、いよいよ、大祓信行は有り難い事です。ね。一生懸命の、もちろん、修行という事が有難い。自分の心のなかの神様が、生き生きとして見える。その生き生きとした、自分の心の中の神様が、それを発見なさる、ね。キャッチなさる。または、それをリズムと聞きとって下さる。ね。そこに、私共の心の中に、安らぎが生まれる。ね。勿論、その安らぎが、おかげを呼ぶ元になることは勿論です。
昨日、竹内君が、御本部から、御用から帰ってまいりまして、日月会便りという、大体、半年分の事ですけれども。沢山な人が、御本部で助かっておる。その方の所から出ておる、これは、日月会便りの中に、この写真が出ている。これが先生の写真。もう、見れば見るほど、助かる橋立を目指さしてござるですね。ん、その御教えというのも、初めは、何かこう、軽い気持ちで読んでおりましたけれども。何回も何回も、こう読みよるうちに、素晴らしいことだという事に気付かせて頂いたんですけれども。
日月の御教えとある。信心する者は、全てが繋がりが出来ておる事を、早く悟る信心そする事と。何が何やら分からんような感じです。しかし、読みよら読むほどですね、信心する者は、全てが繋がりが出来ている事を、早く悟ることをする事だと。今日、私が、みなさんに聞いて頂いたのがこれです。ね。信心させて頂く者は、もう、天地との繋がり、金光大神との繋がり。私共の周辺の、それは、ね。言うなら、ピースとでも繋がっておるということが分かるでしょうが。ね。例えば、ほんなら、昨日、お参りしてくる時にです。ね。ピースは豆じゃから、豆になるごと、主人がまめになるごとと言うて、ちぎってきた事でも何でもないとです。そういう事は知らん人ですから。ね。けども、たまたま、自分所に、沢山なっておるピースをちぎってきて、お供えをさせて頂いた。そしたら、先生が、そのピースを見て、ね。まめで退院が出来るぞと言うて下さった。という様に、もう全てのものと、信心があると、繋がりが出来るという事。大変、だから、深い御教えだなという風に思うのです。もう、皆さんのね、全てのものに繋がってるんです。信心させて頂く者は、それをね。はっきりとこう把握する。その把握する心が、我が心なる、神が生き生きとして来なければ、それを把握する事が出来ないと言うことを、今日は、聞いて頂きましたですね。どうぞ。